【望月正彦の学歴と経歴】就任後9か月で大震災に見舞われた三陸鉄道元社長 | 気になるあれコレ

【望月正彦の学歴と経歴】就任後9か月で大震災に見舞われた三陸鉄道元社長

望月正彦学歴経歴 有名人

この記事では、望月正彦さんの学歴と経歴について紹介します。

三陸鉄道株式会社の社長に就任した9か月後に東日本大震災に見舞われた望月さん。

その時は大きな決断を迫られたようです。

それでも困難を乗り越えられたのは望月さんの今までの学歴や経歴が影響しているからだと思います。

この記事でわかること
  • 望月正彦さんの大学
  • 望月正彦さんの学生時代の活動
  • 望月正彦さんの経歴
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望月正彦さんの出身大学

望月正彦さんの通われて大学は山形大学人文学部です。現在は人文社会科学部になっています。

望月さんは1952年に山梨県で生まれ、その後岩手県石巻市に移り住みます。

出身高校は不明でしたが、石巻市内の高校に進学したのではないかと思われます。

大学では、経済と法律を学び、1974年に卒業しています。

山形大学人文学部は偏差値50.0~52.5の学部です。

2年次からは岩手県職員を目指して「公法ゼミ」で地方自治制度を一所懸命勉強したそうです。

山形大学ってどんな大学?

山形大学は、1878年創立で1949年に新制大学として発足した国立大学です。

本部は山形県山形市に位置し、文理学部、教育学部、工学部、農学部を始めとする総合大学へと発展しました。

現在では人文社会科学部、地域教育文化学部、理学部、医学部、工学部、農学部の6学部を擁し、学生数約9,045名、教員数923名、職員数1,317名が在籍しています。

キャンパスは山形県内に複数あり、地域の特性に応じた教育と研究を行っています。

教育面では、基盤教育を重視し、「持続的発展が可能な循環型社会の形成」と「自然と人間の共生」を基本理念に掲げています。

研究面では、医学部が高度先進医療の研究拠点として、また工学部では有機エレクトロニクス技術の研究で知られています。

さらに、学生支援やインターンシップ制度の充実も図られています。

重要な歴史的事件として、過去に入試の集計ミスが発生し、本来合格すべき受験生が不合格とされる事態がありました。

これに対し、大学は謝罪と救済措置を実施し、公平な教育の提供に努めました。

また、教育学部の再編問題では、地域との協力のもと教員養成機能を維持するための改組を行い、地域教育文化学部へと移行しました。

学外の関連では、山形大学は地域産業や文化に深く関連した活動を展開し、地域社会に貢献しています。

教職員や学生、地域住民との連携を通じて、地域に根差した教育や研究、社会貢献を行うことで、地域全体の発展を支えています。

山形大学のこれらの取り組みは、持続可能な社会と地域共生のモデルを示しています。

望月正彦さんの学生時代の活動

望月さんは勉強だけではなく、部活動やアルバイトなどの課外活動経験も豊富です。

部活はバレー部に所属。

アルバイトはサウナの受付、喫茶店のウェイターなどのアルバイトもやっていたといいます。

ゼミやサークルの仲間でのコンパや馬見ヶ崎川での芋煮会などの楽しい思い出もたくさん作られています。

こういった大学での学びとたくさんの経験から、希望通りの岩手県職員の採用合格を掴み取ったのでしょう。

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望月正彦さんの経歴

望月正彦 経歴
https://toyokeizai.net/articles/-/123937

望月正彦さんの経歴を紹介します。

望月正彦さんの経歴
  • 岩手県県庁入庁(1974年)
  • 県立教育センター主事
  • 企画振興部企画調整課課長補佐
  • 総務部人事課課長補佐
  • 企画振興部新幹線並行在来線対策監(1999年)
  • 商工労働観光部企業立地推進課長(2002年)
  • 久慈市助役(2003年)
  • 地域振興部地域企画室長(2006年)
  • 森岡広域振興局長(2008年)
  • 三陸鉄道株式会社社長(2010年6月~2016年6月退任)
  • 岩手銀行常勤監査役(2016年6月)
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東日本大震災時のエピソード

望月さんの経歴の中で最も大きな出来事だったと思うのは三陸鉄道社長に就任9か月に起こった東日本大震災だったと思います。

3月11日、14時46分に地震が発生すると、望月さんはわずか18分後の15時04分には宮古の本社に災害対策本部を設立。

しかし、状況は一刻を争うもので、15時40分にはすでに津波が宮古駅前に迫っていました。

寒空の下、社員たちは列車内に仮設の対策本部を設置し、ディーゼルエンジンを利用して暖を取りながら、災害用携帯電話での情報伝達に尽力しました。

震災からわずか2日後の3月13日、望月さんは北リアス線の部分復旧を指示。

地元市長の協力を得て、瓦礫の撤去を急ぎ、3月15日には運転を再開し、一週間の無料運行を実施しました。

その結果、わずか4日間で、線路の36.2kmの約3分の1が運転再開されるという驚異のスピードで復旧作業が進みました。

震災の半年後には、観光を活用した復興支援も行われ、杉良太郎さん、瀬川瑛子さん、伍代夏子さん、山本ジョージさんらを招いてのミニコンサートやフロントライン研修といったイベントが大盛況。

一日駅長として参加したスピードスケートの清水宏保さんなどの著名スポーツ選手や、線路が途切れた区間を陸送するなどの創意工夫が光りました。

また、震災復興祈願レールはインターネットで発売され、800万円という一か月分の運賃収入をたった一日で達成し、その後も400個のレールが即完売するなど、非常に高い関心が寄せられました。

このエピソードから、望月社長の迅速かつ効果的な対応がいかに重要であったか、そしてそのリーダーシップが三陸鉄道だけでなく地域全体の復興をどのように支えたかが見て取れます。

これは、三陸鉄道の歴史においても、類を見ないほどの大きな挑戦とその克服の物語です。

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まとめ

この記事では望月正彦さんの学歴と経歴について紹介しました。

まず震災2日後に走らすことができる部分だけ三陸鉄道を走らせると決めています。

その決断力は凄いです。

そして約3年で三陸鉄道を全線復旧を成し遂げました。

今の三陸鉄道があるのは望月正彦さんの決断力があり、それについてきてくれた人たちがいたからこそだと感じます。

地域の方々、鉄道ファンの方々、全国からの声援が背中を推してくれたと望月さんたちは言っています。

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